まずは前提として、下記の言葉を考えてみてください。
お金を稼ぐということ
学生時代、、多くの学校や企業も「就職をする」する際に、「夢」や「希望」といったふわふわしたことしか伝えられていません。そして入社してしばらくは「早期退職をされないように」優しくはれものを触るように扱われます。
その結果、新社会人の皆さんは「会社ってこういうものか」「社会人ってこんな感じか」と勘違いをしてしまいます。しかし5月ぐらいになり、徐々に会社側が「仕事なんだぞ、これは!」という本来の厳しさを伝えると「思っていたのと違う」「会社がむちゃくちゃをいう」と思ってしまうのです。
これは「社会人になる」「社会人は学生時代の「当たり前」が変わることを理解しないまま社会人になったからです。
「社会人が当たり前に求めらるものが何か?」を知らないことからくるのギャップなのですが、その変化を知り、受け入れた上でどう向き合うか?を見いだせていれば会社での活躍がいち早くできます。
もしこの記事を現在学生の方、また新卒、第二新卒ぐらい方が読んでくれていれば、これから書くことを「知っているか知らないか」「理解をした上で腹を決めているか決めていないか」では社会に出た時の動き方がかならず変わってくるはずですので、ぜひご覧ください。
「仕事」とはそもそも何か
あらためていうことではないですが社会人になれば「仕事」をすることが求められます。では「仕事」とは何でしょうか?
多くの学生が「就職活動」の中で「どんな仕事をしたいか?」を考えると思います。しかし、その時考えているのは、社会人における「具体的な作業内容」になっていることがほとんどです。
- 営業ってやったことがないから苦手だ
- エンジニアになってバリバリプログラム開発をしてみたい
- デザイナーになってクライアントに認められるデザインを作るのだ
といった内容です。
これらは社会人にとっての「仕事」の本質ではありません。
社会人になっておこなう「仕事」との本質は、その業務での「成果」を出すことです。その「成果」とは決して「デザインを作る」「プログラムを書く」「企画を考える」ことではなく、最終的には「どういった利益を出せたか?」に帰結します。
なぜなら企業は「利益を追求する集団」と定義されているからです。これが「仕事」を突き詰めた時の中身です。
それをおこなう「手段・作業への興味関心」を元にしてどのような仕事に就きたいかを考えている、というのが就職活動における本質ではないでしょうか?
ですから、最終的には自分が携わっている仕事で「何ができれば利益につながるのか?」を考えていかなければなりません。その視点を忘れると「いわれた業務はしている、勉強もしている」のに「会社で評価されない」となってしまいます。
とくに「勉強している」「知識がある」ことそのものは、評価されることはほとんどありません。なぜなら仕事に必要な知識があれば「結果」につながるはずです。「結果」に繋がらないのは「仕事としては評価されない知識」だからです。
「学生」と「社会人」の立場の違い
学生とは「自らお金を払い、自分の意思で『勉強』をしにいっている」立場です。
ですから高校・専門学校・大学・大学院など義務教育以降の学校は、基本的に生徒は「お客さま」です。
お客さまなので、学校側には「貰っている学費に対して『勉強をしてもらう』義務」があります。その意味では学生側に学校の提供しているサービスに費用対効果を感じるか否かの判断権があるとも言えます。
一方で学生時代に「学生としてするべきことをしない」というのは、例えるならば「コンビニに行って飲み物を買って一口も飲まずにそのまま捨てている」のと同じことです。
これは自分で学費を出している訳ではない人にとってはなかなか実感しづらいのかもしれません。
また「大学にいく」こと自体が「特別なこと」ではなくなっているため、なんとなく大学受験をしてなんとなく大学に行くことになった人にとっては「大学の授業、面倒くさいから今日はサボろう」と思う日もあるかもしれません。実際私も学生時代はそういう感情がありましたし実際したこともあります。
しかしそれは「わざわざお金をだして買っているものをそのまま捨てている」のと同じです。このことは社会人になってわかりました。
一方、社会人は「成果を出すことよってのみ『対価』が得られる」立場です。会社にとっては従業員は「お客さま」ではないのです。
学生と違い、会社には極論としては「育てる義務」はありません。勉強をさせることも求められている訳ではありません。突き詰めれば「利益を出す集団」なので「利益をだす」ための副次的な作業として「業務知識がない人の教育」があるだけです。
ですので、仮に業務時間外に勉強をしている人は、会社側から見れば「教えなくてもできる」と評価されるのです。
これは学生時代に学校の先生が「わからない事を教えてくれる」のとは同じように思えるかもしれませんが、「教えている」ことの出発点がまったく異なっているからです。
「勉強する」ことへの優先順位の変化
社会に出るとさきほど書いたように「勉強する」こと自体は求められません。
突き詰めれば「成果を出す」ことしか求めれないので、極論としては「必要であれば業務時間外に自分で勉強しなさい」です。
近年「働き方改革」によって業務効率がますます求められるようになりました。20年前とかならば残業中に本を読んでいても多少許されていましたが、そういったことが許されなくなってきています。(「勉強は就業時間中にしないでください」という企業が実際にあります。サービシンクはそこまで厳しくはありません)
何度も書きますが、会社自体は「勉強をさせてくれる場所」ではないからです。
勉強は「必要であれば自分でしなければならない」のが社会人です。必要と思った人は就業時間内であっても就業時間外であっても勉強をしています。
また学生と違い「何を勉強すればいいのか」については、短期的な視点では会社の先輩は教えてくれるかもしれません。ですが、社会人人生を通した長期的な視点での勉強内容は誰も教えてくれませんし、教えられません。
「プライベートを削って勉強しなければならないのか?」「会社の業務で必要な勉強は会社が教えるべきだ」と思う人もいるかもしれません。
この理屈は、
- やったことがないのだから教えてもらわないでできるわけがない
- 教えるのは雇用側の義務だ
といったことかもしれませんが、学生時代と社会人では前提が違います。
高校生以上の人は「自らでお金を払って『どうぞ私に勉強を教えてください』という立場」です。ですから学校側は費用の対価として「勉強を教えてくれた」だけです。高校における受験対策の特別クラスな授業なども「生徒がいい大学に進学してくれると高校の評価が上がる」から教えているのであって、究極論はビジネスです。
この物言いは学校の先生からも学生からも賛否両論出るとは思います。しかし高校以上は基本的に学生側の自由意志で自分で選んで「ここに入りたい」と思って入試を受けて入っている事になっています。(高校受験時にそこまでの判断力が学生自身にないまま受験をしていることが問題だと思います)
その「この高校・大学に行きたい」というのは本質的には、その学校の偏差値だけではなく、校風、学業の指導方針、先生の採用方針、部活の指導方針などをすべて含めて判断するべきです。
ですから、現代においては「大学も高校も学校側は生徒に対してビジネスの視点がある」と考えている方がいっそ楽なのです。そこに感情論で「学校とは教育を通してうんぬんかんぬん・・・・」ことを持ち込むから「学校としてそれはいいのか悪いのか?!」といった話になるのです。
ビジネスなので、対価に見合ったことをしているし、それ以上は「基本的には」しません。もししてくれているのだとしたらそれは先生の好意であり、その好意を当たり前と思ってはいけないのです。
話が脱線しましたので、学校を卒業して社会人になった人に訪れる立場の変化です。
社会人は「高校、もしくは大学を出たことで、それらの学府を卒業するだけの学力があり、その上で『自ら学ぶ』ことが最低限できる能力がある」と判断されている人です。
立場 | 求められること | 自己責任になること | 前提 |
---|---|---|---|
学生 | 勉強すること | 成績 | 受験資格の条件 |
社会人 | 仕事での結果をだすこと | 結果を出す方法を考えること | 「社会人」になれる知識は身につけている |
つまり「大学・高校を出ている」というのは、「卒業証書を持っている」ことではなく、「卒業するだけの学力は身につけている」ことが前提です。
その意味でやはり学校卒業は日本式よりも「出るのが難しい」欧米式の方がよいと思っています。なぜならは現在の日本式の卒業制度では「学校を卒業したことに足り得るスキル」を身に着けないまま社会に出られてしまうからです。
立場 | 捉えられ方 | 求められること |
---|---|---|
学生 | お客さま | 授業を受けること |
社会人 | 仲間 | 仲間として助けてもらえるが、自分も「助ける」能力があること |
さきほども書いたとおり、社会人になれば「会社から教えてもらえる」ことはありません。「教える」ことは極論として企業側の義務ではないからです。
さらに突き詰めると社員に対して「勉強をさせること」は会社側ではコントロールができないのです。
なぜならば、「評価」は最終的に組織・コミュニティにおける「結果」での判断になります。そのときに基本的には「経過・過程」は評価の対象にはなりません。
そのため仮に「プライベートで勉強をして、それによって仕事の成果を出せた」人がいた場合、「就業時間中にはとてもまじめにやっていたけど、結果が出せなかった人」よりもよい評価を得てしまいます。
さらにいえば、ある仕事、ある業務において「勉強しなくてもできる」人と「勉強してもできない人」が存在します。全社はその仕事においては「才能がある」人で、後者の人はやっている仕事と能力に乖離があるのでしょう。
その時、後者の人を「勉強しなくてもできる状態」や「勉強した分だけできる状態」にすることは会社側はしてくれません。
「他人がやっている努力と同じだけやっても人より遅れる」ならば、単純にその仕事における才能がないのでそれを乗り越えるだけ努力をするしか無いですし、それをムリと思うならば仕事を変えるべきです。
また「プライベートで勉強をしていた」人を相手にして「プライベートで勉強しているのは卑怯だよ。就業時間の8時間だけ身につけたもので勝負しろよ」といったこともまったくナンセンスです。
プライベートは自分が自分の人生のために使う時間なので、「仕事のために使う」のも「自分の余暇のために使う」のも自由です。そしてその「自由な時間」を何に使うか?によってその会社内だけではなく「市場」での価値が変わってくるのです。
ですが、それは本来学生の時も同じです。
放課後の時間にどれだけの勉強をするかは本人に任せられていて、その中で、遊ぶのか勉強をするのかを選んできた訳です。
当然人には能力、向き不向き、才能には違いがあるので「同じ時間の勉強」をしたとしても、習熟度は人によって変わってしまいます。残念ですが「人は平等ではない」のです。
社会人として時間が経過すればするほど「じっくりと勉強する」といったことができなくなります。「社会人になってからの数年でどれだけ学べるかが勝負」になってくるのが社会人の勉強の怖さです。
そのことは「できるだけ若いうちから「メタスキル」を身につける事に時間を費やす重要性」に書かせていただきましたので、別途ご覧ください。
「自分らしく」の優先度
近年は「ダイバーシティ」などの考え方で「個人の考えを重要視」「自分らしく生きる」ことが一般的になっているかもしれません。
学生時代まではそれでも問題ありませんでした。学生は友人はいても責任を伴う事案の観点でいえば「一人」だけの集団だからです。
しかし社会に出ていくと一人では生きていけません。個人事業主やフリーランスであっても仕事は他人とおこないます。物を買うといったこともネット越しになっていたとしてもその先には必ず「販売主」の人がいます。
完全に自給自足の生活をしない限り、必ず「他人」と関わるのが社会で生きていくことです。
そして「社会」は必ず何かしらの「利益の交換」によって成立していますので、必ず他者に利益を与えないと生きていけないのです。
その意味において、社会で生きていくには常に他人の利益に自分の言動の制限を受けることになります。これは会社、家族、友達などあらゆるコミュニティにおいて同じです。
そのため、無条件・無制約の「自分らしさ」を発揮できるというのは有りえず、何かしらの制限の中で「自分らしさ」を発揮しないといけません。
最近の風潮にある「自分らしく生きる」は、外部からの制限を受けることを避ける、逃げる、そしてそれを悪と思うといったものがありますが、何かしらの制限を受けないで「自分らしく」生きられる場所はないのが社会です。
名村さんは起業して社長で最高権限者だから何でも自由に決められるじゃないですか!?
という意見をもつ人もいるかも知れません。
しかしそれは勘違いです。企業の代表は「企業を継続させる上で、市場から制約を受けている」立場なのです。
市場の方が大変ですよ・・・良し悪しを言葉では言ってくれないんですから。それに比べたら上司や同僚、サークルの中でのやり取りなんて「言語化」されているだけマシです(笑)
この「他者からの制限」があるという前提に対して、
- 人は自由であり、制限や制約はあるべきではない
- 他者から制約を受けたくない
- そんなのはナンセンスだ
と考える風潮がいつしか「それが正しい」という世論になり、勘違いを生み、その結果、本来は当たり前に存在する他者からの制約を、必要以上のストレスと感じてしまっているのが近年の状況ではないでしょうか?
社会における「自分らしさ」は「他者からの制約がある中で発揮するもの」という前提を忘れてはいけません。人は「不自由さの中から自由さを選ぶ」ことで生きていけるのです。
成果を出すための方法
社会人は「成果」を出すことが求められますが、難しいのはその「成果を出す方法」がわからないことです。
学生時代は「勉強をして、記憶をして、練習をする」ことによってある程度「成果」が得られることがわかっています。ですから「成果=テストの点数」が得られないのは、その人の努力が足りない、という比較的わかりやすい構図があります。
逆にいえば「さらに時間を割いて」勉強すれば成果を出しやすくなっていきます。
しかし社会人で求められる「成果」の出し方は、誰も教えてくれません。その方法を考えることからすべて求められます。そして場合によっては誰もやった事がないまったく新しいことをしなければならない場合もあります。自分の会社の上司ですら「答えを知らない」ことだってザラです。
「上司なんだからその方法を知っているべきだ」というのは会社に対して「教師」を求めている思考です。ですが、上司は教師ではありません。上司の役割は「指示命令」と「責任」を追う立場です。
さらにいえば、「上司は答えを知っているべき」という思考の人は「教えられないと出来ない」と言っているのと同義です。
これからの時代はさまざまなテクノロジーが、多くの人がこれまで経験したこともないほど理解を超える速度で進化していきます。その時代に生きていて「誰かが答えを知っている」ことを期待することの方がムリです。
きっと上司ですらさまざまな経験を元に常に「推論」をしているだけで、それをさも「以前から知っていた」かのように話しているだけです。
また仕事は勉強と違い、自分ひとりの努力だけでは済まず、我慢や、周囲の協力を得る、といったことも求められます。場合によっては「社会の状況」といった個人や会社ですらどうにもできない理由によって成否が分かれるものもあります。
そのため、社会人は「教わっていない」「やったことがないから出来ない」は通じません。
そのことは以前に「初めてのことでも答えを導きだすためのたった4つのステップ」でも記載をいたしました。この「成果を出すための方法が不明という中で、どうやれば成果が出せるか?」考えられることが社会人に求められていることです。
考えていることは伝えるには「説明」では足りず「説得」が必要
社会人になったときに多くの人がつまずくのが「周りや上司は自分のことをわかってくれない」という点です。
これも学生と社会人の違いの大きな点ですが、会社や社会はあなたが発信をしない限り理解をしてくれないものです。もちろん「顔色が悪い」「骨を折った」といったようなレベルは別ですが、「考えていること」を周りが察して先に動いてくれることはかなり稀です。
言葉で伝えたとしても会社も上司も同僚も超能力者ではないので、あなたの考えていることのすべてを正しく理解することはできません。
しかし学生時代、生徒は学校にとっての「お客さま」ですので、顧客満足度向上のために「お客さまの満足度調査」としてさまざまな不満・不安等に対してヒアリングをして対応をしてくれます。
しかし「なにか困っていることはない?」と相手から聞かれなければ伝えられないというのならば、それは幼稚園児が先生から「お腹へっていない?」「おしっこ行かなくていい?」といわれているのと同じです。
社会人の場合には「相手に説明をして納得をさせる」ところまでが求められます。単に言いたいことを説明をするだけで足りないのです。
相手に「利があることを理解し、納得して行動をしてもらう」ところまでしなければなりません。
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